道徳とは、

『本当に必要な道徳教育は、子どもたちにできる限りの真実を教えてやることだ。人間の抱えている矛盾や問題をごまかさずにだ。』

『自分の頭で考え、自分の心で判断できる子どもを育てる方が大切だろう。
そのためにはまず大人が自分の頭で考えることだ。
道徳を他人任せにしてはいけない。』

この本を読むきっかけとなったのは、子どもに「道徳ってなに?」って聞かれたらなんて答えたらいいのだろう?と考えたことから始まった。道徳を教える立場にある親が自身の道徳観をどのように持っているのか、そして何から教えていけばいいのだろう?と考えるきっかけになった。

もう一冊「新しい道徳」藤原和博著も読んだ。東大→リクルート→杉並区の中学校長という経歴の方。
世の中色んな人がいるから「納得解」を求めることが大事。的な事が書いてあった。
別に当たり前じゃん!
あまり心に響かなかった。と言う事でこちらの本は抜粋せず。

話が少しそれますが、私の両親は「放任主義」というと聞こえがいいですが、自己のことが最優先で子どもはほとんどほったらかし。という感じの親でした。休みの日は、父は昼頃起きて将棋のテレビを見て昼食を食べたらパチンコへ。母はそんな父に腹を立てながらも内職と家事。昔で言う「米ソ冷戦」状態でした。夫婦の会話はもとより、親子の会話もほとんどなしでいつもテレビが付いていて、テレビに向かって笑っている。そんな家族でした。

親から言われたことと言えば「人に迷惑をかけるな!」「勉強しろ!」ということだけ。かなりしつこく言われていたので、よほど人に迷惑をかけていたらしい。私としてはあまりその意識がないので、迷惑の尺度が親と子でそうとうズレていたということだと今でも思っています。母は自分のものさしでしか子に語れないという人でした。(父は全く何も言わない人でした)

そんな私が人の親になったとき、両親を反面教師にし自分の子どもには私の人生のノウハウをしっかり伝えていこう!グーミンにはさせない!と決めました。かといって、押しつけた情報は本人の心に届かないので、聞かれたときにはきちんと答えるようにしようと自分に言い聞かせてます。

教えることは次のこと。

食べ物や物を大事にすること(もったいない)、善悪、道徳、歴史、自己解決力、生き延びる力、世の中の表と裏、自分や家族を大事にすること。武士道なんかも教えられたらいいなと思っています。

と言う事で、以下はこの本を抜粋して覚書とする。
とても共感する部分が多い内容でした。

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『道徳がどうのこうの言う人間は信用しちゃいけない』

いろんな価値観があった方が良いのだ。価値観がいろいろあれば道徳だっていろいろあることになる。道徳と言うのは価値観の上に乗っかっているものなのだ。

俺の母親はいろいろなことを俺に言った。
例えば行列に並んでまで食いものを食うのは卑しいとか。なぜそうなのかなんて理屈はあまり言わなかったそれでも母親の一言のおかげで俺は行列に並べない大人になった。

母親の行列に並んでまで物を食うなと言う道徳はしっかり俺という人間に染み込んでいる。
どうして染み込んだのかと言えば母親が心の底から軽蔑していたからだろう。そして自分の子供にはそういう人間にはなって欲しくないと願った。そして本気でそれを俺に語ったからこそ子どものオレの心に「行列に並ぶな」って言葉が刻みこまれた。大人が心にもないことを言っている限り子どもには伝わらない。道徳っていうのはそういうことだと思う。他の教材のように理屈で教えられるものではない。


『向上心のある芸人は自然にこの世界の掟を身につける。上に行こうとする奴は放っておいても道徳的になる。』

道徳は他人に押し付けたり押し付けられたりするものでは無いのだ。
もちろん親として自分の子供に最低限の道徳は身に付けさせたいとは思う。
ただそれはあくまでも最低限のことだけだ。
子供が悪いことをしているのに気づいていなかったらそれは教えてやる。なぜそれがいけないのかを話しさえすればたいていは理解する。
最低限の事しか教えないのはどんなに厳しく道徳をしつけたところで子どもが自分からそう思わなきゃ意味はないからだ。
結局のところ道徳は自分で身に付けるものなのだ。どんな道徳を身につけるかは人によって違う。

自分なりの道徳とはつまり自分がどう生きるかという原則だ。
昔の人にはそれがあった。
道徳なんて言葉は使わなかったけれど自分の哲学で自分の行動を律していた。今の大人たちの根性が据わっていないのは、道徳を人任せにしているからだ。
それは自分の人生を人任せにするってことだと思う。


『神様とは関係なしに自分の道徳で生きていけばいい』

どこか歯止めをかけるのが道徳の役割だ。
そうじゃなければ何をやってもいいということなんで面白くもなんともない。野球だってサッカーだってルールがあるから面白い。人生も同じだ。
ここまでずっと書いてきたように道徳なんてものは人によって立場によっていろいろあるわけだ。大事なのはどんな道徳であっても自分の決めた道徳はきっちり守ることだと俺は思う。
他人の作った道徳がストンと自分の胸に落ちるならそれを守ればいい。けれどそうじゃないなら守ることができるかどうかわからない道徳を抱えて生きるよりも、自分なりに筋の通った道徳を作ってそれをきっちり守ったほうがいい。
人間として生きるにはやっぱり道徳はあったほうがいい。ただし他人の作った道徳に鼻掴まれて引っ張り回される必要はない。道徳は自分でつくるに限る。どうやって作るかわからなきゃ、とりあえず道徳の本を読んでみたらいい。


『周囲の自然に感謝して生きていけば何とかなると言う発想が日本人の思想の根っこにある』

日本の道徳には宗教の裏づけがないから弱いだって前に書いてたけれど、そう考えるとそれは日本の強みでもある。キリストの誕生日を祝って1週間もしないうちに、神社に初詣に行って手を合わせる。結婚式は教会なのに、葬式は坊さんに頼んでも何の矛盾も感じない。
日本人は何でも曖昧にしてはっきり白黒つけない。ノーと言わない。そういう日本人の国民性は、どちらかというとネガティブな評価を受けていたけれど、今の時代にはそれが案外合理的な態度なんじゃないか。
乾杯がどんどん変わる。だから日本人は思想を突き詰めることがない。だけど突き詰める必要なんてないんじゃないか本来は。
自然がなんとか生かしてくれるのだ。
周囲に感謝していれば何とか生きていける。
昔は飢餓とかもあって今みたいに豊かではなかったけれど、それでも山には山の幸があり海には海の幸があって、俺たちの祖先をなんとか養ってくれた。
自然は日本人とっては何よりも恵みを与えてくれるものだった。


『食物が旨いだの不味いだの言うことを不道徳と感じるのは、ある年齢以上の人間にとっては当たり前のこと。』

支配者が世の中の治安を保つために庶民に押し付ける道徳とは違う意味の道徳もある。
親が子に伝える道徳だ。
俺の母親がよく「食べ物がおいしいとかまずいとか言うのは下品だ」と言っていた。今日のカレーはうまいねとかまずいねとか言うもんじゃないと言うのだ。
今の人には理解できないかもしれない。妻がせっかく作った料理に対して、おいしいと思うまずいとも言わない夫が酷くこき下ろされる時代だからそれも仕方がない。
何しろ食い物が捨てるほどあるって言うのは、それこそ何十年かの話でそれ以前の日本人はずっと基本的にこの日本列島で収穫できるだけの食い物でしのいできた。飢えて死んでいく人がいるのに食べ物がうまいだのまずいだの言うことを不道徳と感じると言うか、抵抗を感じると言うのはある年齢以上の人間にとっては当たり前のことなのだ。


『最高の性教育は出産シーンを見せてやることだ』

公然わいせつ罪と言うのがある。
なぜ公然とそれをしてはいけないのかと言うと、社会の性的道徳秩序を乱すからなんだそうだ。性器を見ると人の性的道徳秩序が乱れちゃうと言うことなんだろう。
特に女性の性器はそこから子供が生まれてくる神聖な場所だ。その証拠に日本のあちこちには性器そのものを御神体にした神社がたくさんあって、ほとんどセックスそのものみたいな祭りは今もあちこちに残っている。
その祭りを見物して人の性的道徳秩序が乱れたなんて話はきかない。あっけらかんと見せてしまえば誰もおかしな気分になんてならないのだ。
最高の性教育は出産シーンを見せてやることだと思う。
妊婦が苦しみながら赤ん坊を出産する様子を見て性的道徳秩序が乱れるなんて言う奴がいたらどうかしている。
母親がこんなに苦しみながら自分を産んだんだっていうことがわかれば、親孝行しなさいなんてわざわざ教える必要はない。そりゃいろいろな親子関係はあるだろうけれど少なくとも自分を産んでくれたことだけは感謝するだろう。
親子関係がおかしくなっている理由の1つはそういう自然なことを子供に隠しているからなんじゃないか。何だか知らないけれど性器を目の敵にしてわいせつだから絶対に見せちゃいけないなんて言っているからみんな見たくて仕方がなくなる。そしてそのイメージや妄想は次第にねじれてあらぬ方向に変化して行くのだ。
自分がそこからこの世に生まれてきた大切な場所だと言うことをすっかり忘れて、下手するとこの世で1番わいせつな場所だと思い込むようになる。


『牛や豚がどうやって育てられ、殺され、 肉になって俺たちの食事になるのか、実際にその目で見て経験させる。』

食い物っていうけれど、それは生き物の命だ。
人間は他の生き物を殺して生きている。
そんな事は誰でも知っていると言うかもしれない。
けれどその認識が本当にあれば、自分の目の前に置かれた食物に対して、そんなに簡単にうまいとかまずいとか言えるものではない。
昔の人は偉かった。だけどそれは彼らが俺たちより優れていたからではなく、食い物が今よりずっと貴重でそして身近にあったからだろう。
鶏肉を食うには、鶏を殺して羽をむしらなくてはいけない。
豚肉を食うには、豚を殺して解体しなくてはいけない。
そういう現場が人々の身近にあった。
生き物を殺してそれを食っていると言う実感をみんなが持っていた。自分の手の中で鶏の命が消えていくのを経験すれば、どんな人間だって、食べると言うことにもう少しは謙虚になるはずだ。
だけどいま家の家魚はスーパーの棚に並んだモノでしかなくなってしまった。
そういう意味で、現代人は道徳的に堕落している。
アフリカで飢餓に苦しんでいる子どもたちが、日本の道徳の教科書を見たら、きっとよく理解できないんじゃないだろうか。それとも、平和な日本を羨ましく思うのだろうか。
様々な問題はあるけれど、日本で暮らす俺たちは、世界標準で見ればありえないくらい、平和で幸福な日々を生きている。
子どもたちに教えなければいけないのはまずそういうことだと思う。
食事をする前に「いただきます」ということを教えるだけではなくて、その自分がいただくものがどういう風にして食卓に載ったのかを全て見せたらいい。牛や豚がどうやって育てられ、殺され、肉になって俺たちの「食事」になるのかを、話すだけではなくて、実際にその目で見て、経験させたらいい。
本当のことを知れば子どもの心は動く。どう動くかは子ども次第だ。
なぜそんなことをするのかと聞かれたら、自分なりの考えを伝えたらいい。泣く子もいるだろう。本を読む子どもいるだろう、動物を飼う子もいるかもしれない。
そして子どもは考える。
その「考える習慣」をつけてやること以上の道徳教育は無い、と俺は思う。


『これから先は個人の道徳なんかより、人間全体の道徳の方が大切になる。』

子どもの道徳教育で1番大切なのは本音で話すことだと思う。
あいさつをちゃんとしろとか、ごみを捨てるだとか、老人に親切にしろとか言うのは道徳と言うよりは単なるマナーの問題だと思うけれど、どうしてもそういうことを教えたいって言うのなら、それが人間関係を円滑にする技術だってことを正直に教える。あいさつすると気持ちが良いだなんて、下手な理屈をつけないほうがいい。
挨拶をしたら気持ちが良いかどうかは本人の問題だ。
本当はマナーなんてものは授業で教えるよりも、子どもが何かをしでかしたときにその場で叱ったり、諭すとかして教えた方がいい。
街中で騒いでる子供がいたら、そこにいる大人が叱ってやればいい。
だけど、さっきも書いたように、そういうマナーの問題よりももっと子どもたちに教えなくてはいけない大切なことがある。
本当に必要な道徳教育は、子どもたちにできる限りの真実を教えてやることだ。人間の抱えている矛盾や問題をごまかさずにだ。
国と国がどう付き合うかっていうことも、これからは今までよりずっと深刻な問題になっていくだろう。それは政治の問題で、子どもには関係ないなんてバカなことを言ってはいけない。政治家や官僚任せにして、いつか酷い目に合うのはその子どもたちなのだ。
これから先は個人の道徳なんかより、人間全体の「道徳」の方がずっと大切になる。
この先人間はどうすればいいのかを、子供たちがしっかり考えられるように何でも本当のことを教えておくのが、大人の役割なのだ。
それこそが今という時代に必要な、本当の道徳教育だと思う。


『おわりに』

「良いことをすると気持ちがいい」のは何故か?
「いいこと」をすると気持ちが良いのは群れて生きる人間のいわば本能なのだと俺は思う。

…とはいえ、だ。
誰かにとっての「いいこと」が、他の誰かには「悪いこと」だったりすることもある。ある時代には「いいこと」だったのに時代が変われば「悪いこと」になったりもする。

「いいこと」は簡単に「悪いこと」になる。
という事は「いいこと」の集大成みたいな道徳の内容だって、時代と一緒に変わっていかなきゃおかしいのだ。
ところが世の大人は、自分が子供だったころの、昔ながらの「道徳」を子どもに押し付けたがる。「いいこと」は永遠に不変だと信じているからだ。
道徳教育を徹底しないと、子どもがおかしくなってしまうなんて言うのは、年寄りの錯覚でしかない。
錯覚でしかないのだけれど彼らはそれを「いいこと」だと思い込んでいる。
だからそれを子どもたちに教え込もうとする。そんな年寄りの戯言には耳を貸す必要は無い。古臭い道徳を子どもに押し付けたって世の中は良くはならない。自分の頭で考え、自分の心で判断できる子どもを育てる方が大切だろう。
そのためにはまず大人が自分の頭で考えることだ。
道徳を他人任せにしてはいけない。
それが言いたくてこの本を書いた。
あとは自分で考えてほしい。
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